ケンチェラーラの自転車日記

ケンチェラーラ.

ゆる~く まったり ケンチェラーラ.

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学問を必要だと感じる理由

はじめに

私は昔は勉強が大嫌いだったし、今でもウンコかよと思うことも多々ある。人並み程度の頭、人並み程度の記憶力、人並み程度の論理力しか手に入れることはできなかったが、今では幼少期に無理やりでも机に座らせてくれた両親に床を舐めてでも感謝の気持ちを伝えたいくらい感謝している。子宮からこんにちわして早22年。最近になってようやく自分の思考を文字に起こすことができるようになってきた。ここで最近、学問の意義に関する議題が世間で蔓延っているようなので一筆書き殴るとする。

誰しもぶつかる壁

社会人、大学生、受験生、浪人生、受験生、高校生、中学生、小学生、誰しも一度が勉強を投げ出したくなったことであろう。私は英語の1~100が覚えられず、中学生の時一人で泣き崩れていたくらいである。五里霧中で受験を終え、大学までは学習の意義を考える余裕や知識もなかった。目の前のことにとにかく打ち込む。それだけであった。

義務教育を経て学を得る。日本では義務だ。崇高なアイデアを幼き頃から掲げており、起業家を目指す人は目指せばいいがリスクリワードの観点からもその投資はよっぽどの確信がない限り辞めた方が良い。これは私が臆病で慎重な人間であるが故言っている独り言である。

なぜあれほと膨大な時間を投資して学習しなけらばならないのか。星の数ほど理由は後付けできるが、私は大きく三つあると考える。「自己研鑽」「可能性の模索」「物差し探し」である。

自己研鑽

自分磨き。イケメンになるために努力するのと似ている。イケメンになるためには美容院にいったり、眉毛を整えたり、ワックスを付けたり、いろいろ大変である。自分の脆弱な部分と向き合い、それを改善するように努める。スポーツでもナンパでも料理でも同じである。自分を理解し、自分に強くなる。しかし、勉強ばかりしていてはだめだ。人間には右脳、左脳があり感性を司る右脳、論理を司る左脳。両脳をバランスよく鍛え上げていくことが理想だ。右脳に偏れば、小説家のようになるし、左脳に偏れば数学者のような人間になる。自分の目的とビジョンに応じて、筋トレのように微調整する必要があるということである。私は人生でどちらかに偏る時期を複数回持つべきだと思う。なぜならば人間は不器用で思うほど器用な生き物ではないからだ。例えば受験期は左脳。大学生では右脳。典型的な大学生やないかい。このように両脳にスパイスを入れてやることで豊かな発想や知識が身につく。そして一度何かの分野で自己研鑽をしておくと他の分野でもだいたい上手くいく。そんな気がする。知らんけど。

可能性の模索

赤子に何ができるかなんて分からない。後天的に人間は何かの可能性に気づき、そこにチャレンジする者、チャレンジしない者に分かれる。学習を通して「話す 書く 聞く 理解する 解釈する」といった基本的な行為を身に着け、日々飛び交う億千万の情報から自己の可能性を探す。野球選手になれるのでは?あの女の子と付き合えるのでは?音楽好きかも?などトリガーは沢山ある。学習を通して基本的な行為を身に着け、自分に何ができるか考えてみればいい。何も見つからなくても、このお国では真面目に勉強しておけば食いはぐれはない安定国家なので気楽に探せばいい。

物差し探し

これが大切だと考える。自分に子供ができたらぜひ伝えたい。物事の物差し。人それぞれ定規の大きさ、種類も違う。三角定規を使う人もいれば、直角定規を使う人もいる。中にはフリーハンドでお絵かきする人もいる。何が言いたいかというと、自分の物差しがないと人生路頭に迷う気がするのである。例えば、結婚する時、幸せの効用を求める人、経済的効用を求める人、プライドや地位に囚われる人、欲望のみを求める人、どれも不正解ではないが、完全解でもない。他に例を挙げるならば、仕事を選ぶときはどうであろうか。YouTuberのように楽しさの物差しで働く人、林修のように流儀にこだわる働き方、山高敦之先生のように技術と完璧の物差しに従って働く人、生きねばという使命感で働く人、いろいろな働き方があってそれでいいと思う。どれも素晴らしいし、尊いものだ。しかし、自分の軸は何か?と聞かれて3秒以内に返答できる人は早々いない。ではなぜか?理由は簡単。曖昧な社会だから。分業によって細分化された我々の営みは自己認識ではその営みの価値を見出せなくなっている。つまり流され生きる人々が増えているということである。小生はまだ22年そこらしか生きていないが、このことは日常で深く感じている。世の中は上手くできていて、何事もなるようになっていく。人は感情で生きている生き物であるし、未来のことも分からなければ、本能に背いた行動も簡単にできる生き物ではない。自分の頭で考える道具が必要なのである。私の物差しは価値を見極める定規として金融、実情を知る定規として言葉がある。大学ではこの物差しを得るために大半の時間を費やした。多様な本を読み、考え、だいたいの言葉を理解できるようになった。一方、企業価値、資産価値を身銭を切って本気で吟味し、金融を学んだ。結果としてモノの真価が大まかに分かるようになった。俗にいう専門分野でも物差しにはなる。とにかくどの分野で考え、目の前の事象を捉えるか。手探りで探し探求した。そしてその物差しを使って、何でもいいので考えること。本を読んでいるとき、人の話を聞いているとき、YouTubeを見ているとき、TikTokカップルを眺めている時、自分がどう感じてどう考えているか言葉で表す。簡単そうに見えて難しいことだ。ある程度の語彙、知識、専門、経験がないと早々言葉は出てこない。いろんなことに挑戦して、とにかく頭を使う。学歴は関係ないし、IQも関係ない。自分の中で精一杯考える。頭でっかちになっても、直ぐにそのでっかちな頭をかち割られるから気にしない。割られたらまた一生懸命考えればいい。

 

軸を持っている人は、さらにその軸の感度を高めるために学習。

軸が定まっていない人は、軸を探すために学習。

学習に次ぐ学習。

生涯学習

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